kashiwayaの歴史など

柏屋旅館の記憶
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木戸宿の
宿として愛された
柏屋
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高崎今蔵を知っているだろうか。片寄平蔵とともに常磐炭田の路頭を発見した人物である。
「柏屋旅館」は、かつては木戸宿と呼ばれた宿場町の一角に、高崎今蔵の子孫である高崎シゲさんが昭和9年に開業した料理旅館である。当時の楢葉町は炭鉱や林業が盛んで、楢葉の山から木戸駅前までトロッコの線路が伸び、賑わいを見せていた。元々はお休み処だったお店が旅館へと業種替えをしたのも、営林署や炭砿の人々からの要望があってのことだったという。(昭和2年の手帳には、材木を炭鉱に納めていた記録が残っているそうなので、以前はいくつかの兼業経営だったのかもしれない。)

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昭和32年にシゲさんが亡くなり、シゲさんの親戚で養子として育てていた高崎ツル子さんがその旅館を引き継ぐことになった。ツル子さんはまだ18歳。同じ歳のお手伝いさんと一緒にお客さんに支えられながら朝から晩まで休む間もない日々だったという。結婚してからは、国道沿いでガソリンスタンドも経営した。子どもが産まれると、子どもは近所の鍛冶屋に預けて、旅館の切り盛りにあたった。

旅館の近くには木戸川という鮎や鮭で有名な川もあり、秋になると木戸川の鮭を軒先で捌くのも柏屋旅館の風物詩の1つだった。また旅館の井戸は今福酒造の水として使われるほどの名水で、茨城の竜神大橋を工事するときの水としても使われたという。

その後、楢葉町と広野町に跨った場所に、日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンターがオープン。プロ選手をはじめ、全国各地からユースの子どもたちもサッカーの合宿で楢葉町に滞在するようになった。その頃にツル子さんの後を継いだのは、娘の泰子さん。柏屋新館(現在のシェアハウスkashiwayaの建物)もオープン。結婚して小名浜に居を構えていた泰子さんは、この業務は片手間にはできないと、家族とともに楢葉に拠点を移した。

ユースの合宿で滞在する子どもたちへの食事は、1週間のメニューも栄養バランスや同じものを出してはいけないという決まりもあり、泰子さんは栄養管理の資格を取得。全員目が配れる規模の旅館として、一人一人の体調にも応じて料理を変えることができるのを強みとした経営を続けた。

朝昼晩と間食2食。泰子さんは子どもたちが飽きてしまわないよう、ご飯を雑炊にしてみたり、時にはハンバーガーを作るなど、気持ちが元気になるメニューを考えては子どもたちを喜ばせた。ホームシックになってしまう子どもたちを支えようと、夜は子どもたちと話をして時間を過ごし、なるべく家に近い雰囲気となるよう気を配っていたのだそうだ。柏屋に寄せられた色紙には「ごはんが美味しかった!」「もつ鍋のパワーで勝ちます!」「なんか家にいるみたいでした」「くつろげました」「怪我をした時に優しくしてくれてありがとうございました」「またもつが食べたいな」「また来たいです」と、子どもたちの言葉が紙から溢れんばかりに綴られていた。

サッカーの合宿先としても人気となっていた2011年3月、東日本大震災と原発事故が起きた。楢葉町は全町避難となり、旅館は突如休止を余儀なくされた。泰子さんも家族とともに避難。その後病気が発覚し、泰子さんは手術と入退院を繰り返すようになった。

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シゲさんが時々口にした「楢葉のために何かやらないと」という言葉が、病床にあった泰子さんの心に残り続けていた。泰子さんは、体調が戻り始めたところで、お客さんに喜ばれてきた「食」で何か楢葉のためにできないかと考え始めた。そして、「陽なたぼっこ」という名前で、病気の方も安心して食べられる体に優しい食事を提供する食事処をオープンすることにしたのだった。柏屋旅館は手放すことにした泰子さんだが、陽なたぼっこの玄関には「柏屋旅館」の看板が、今もそっと置かれている。

残された柏屋旅館、その建物は楢葉町が町の資産として引き受けることになった。そしてこれからの柏屋をどうしていこうかとなった時、偶然の重なりで浮上したのが「結のはじまり」という人と人を繋ぐ食事処を震災後の過酷な状況下で営んできた古谷かおりさんだった。かおりさんがちょうど計画していた「賄い付きシェアハウス」の事業に白羽の矢が当たったのだ。まるで運命のように。

泰子さんからかおりさんに、「柏屋」のバトンが渡った。柏屋の「柏」は、新芽が出てくるまで葉っぱが落ちない(枯れ木ならずに次に渡る)ことから代々繁栄を意味する“縁起の良い”屋号として好まれていたのだそうだ。そしてこの「柏」は、縄文時代から、たべものを蒸すために使われていた調理の葉っぱでもある。だからだろうか。柏屋には食が結びつき、ここで調理される「食」には、人を想う優しさがあり、心と体をほぐし休める場を作り、人の輪をつくり、楢葉という土地と人の縁を繋ぐ力があるようだ。柏屋は受け継がれ、そこでもまた、誰かを想うやさしさが、この場所をひらき、未来への布石を作っていくのだろう。

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2

DIYで
kashiwayaに
生まれ変わる

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旅館「柏屋」だったこの建物が、シェアハウス「kashiwaya」へと生まれ変わる。その手触りをみんなで確かめながら変化していくために、DIYワークショップを計6回実施した。

DIYを指南してくれたのは、地元の大工さんたち。食堂の家具から、縁側のウッドデッキまで、なかなか一人ではできないようなDIYにみんなで取り組んだ。
参加したのはさまざまな形でkashiwayaのはじまりを応援してくれる人たち。先輩移住者や、町にインターンに来ている若者、地元のご近所さん、子供たち。

初日は雪が降る2月。大工さんちの作業場からスタートした。大工さんは「モノ好きな若者が居るもんだ」と思ったことだろう。計6名の参加者が震えながら木材の切り出しに目を輝かせた。
毎回のようにワークショップに参加してくれた女の子も居た。彼女は同じく楢葉町内のシェアハウスに暮らす移住者で、このワークショップをきっかけに大工さんと顔馴染みになり、「この前、町なかで見かけたぞー!」などと嬉しそうに話す大工さんと、「そうそう、あれ私です!」と笑いながら返す彼女の様子を見ながら、こういうことを積み重ねていく場所になるのだ、kashiwayaは、と確信を胸に秘めた。

かつては囲炉裏のあった和風の「宴会場」を、北欧風の「食堂」にアレンジするため、茶色い木質の壁をアイボリー色に塗装した。最初は恐る恐る、次第に大胆に、ローラーを動かしていく。和風の空間をこんな風に塗ってしまっていいのだろうか・・・という少しの罪悪感が、だんだんと「みんなの手仕事が垣間見える、素敵な空間になるぞ」という確信に変わっていった。壁をこんなにまじまじと見つめる機会もなかなか無い。画鋲の跡。ここにポスターでも貼っていたのかなあ。

DIYの一番の大仕事は、ウッドデッキの新設だった。材料となるログ材は、かつて仮設住宅で使われていたもの。当時、誰かの避難生活を包み込んでいたログ材を、新たな形で再活用させていただいた。分厚く重いログ材の設置には、大人数で協力して取り掛かった。一本一本が繋ぎ合わさり、次第に面になっていく。だんだんと、他に類を見ない重厚な縁側が出現した。完成したその日の休憩は、みんなで横に並んでくつろいだことは言うまでもない。すでに春の陽気を感じさせる季節になっていた。

3

賄い付き
シェアハウス
kashiwayaが
スタート!

 2022年5月14日、ついに4人の入居者の引っ越し当日を迎えた。
楢葉町の役場職員や、まちづくり会社の職員も助っ人に繰り出した。
これまで官・民が膝を付き合わせて時間をかけて準備してきたこの場所に、「生活」の拠点を移す人が4人も居る。今日からここで、食べて寝て起きて、仕事に出かける。その実感と責任をリアルに感じた朝だった。

4人は、その日初めて顔を合わせた。老若男女、背景の異なるメンバーでの共同生活が始まる。真新しい家具が設えられたkashiwayaに、一人一人の引越し段ボールや布団などが運び込まれ、生活の温度が吹き込まれていく。

初日の夕飯は、ぎこちなさを隠しきれないまま、みんなで食卓を囲んだ。引越しそばと、春の山菜の天ぷらなどを食べながら、一人一人の自己紹介や、楢葉町での生活を通じてやりたいことなどを語り合った。どんな仕事をしていて、何時ごろに起きて、何時ごろに帰ってくるのか。食事の好みはどんなふうで、嫌いなものはあるか。普段は人に話すまでもない生活のパーツを、お互いにあらわにしていく。今思えば、管理人が一番張り切っていたのかもしれない。住人たちは思いのほか自然体で、あくせく気を回しすぎる管理人の心配をよそに、「お風呂の順番どうする?」「冷蔵庫の使い方どうする?」などの意思疎通を繰り返してすでに生活をスタートさせていた。

この文章を書いているのは、あの日から1年が経とうとしている何気ない休日。4人は今日もkashiwayaで暮らしている。口を揃えて「みんな仲がいいし、程よい距離感で、本当に暮らしやすい」と言ってくれる。今のkashiwayaに流れる、そよ風のように居心地のいい雰囲気は、間違いなく住人の彼らが作り出してくれた文化だ。今日は、みんなが自主的に始めた「kashiwaya菜園」で収穫した大豆で、豆腐をつくったらしい。住人だけでなく、地域の友人たちが集い、楽しそうに過ごしてる。そこに参加してもいいし、しなくてもいい。少し顔を出しただけの管理人に、みんなは豆乳を飲ませてくれた。私が「美味しい」と笑うと、みんなも幸せそうに笑った。

暮らしがホカホカしてくる場所。これから先に住人が移り変わっても、この建物はそんな場所であり続けるのだろうと、意気込むまでもなく、ただ信じている。

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